人は、自分でも気づいていない願いに出会った時、安心する。
人には、なぜか安心する人がいる。
一緒にいると落ち着く。
話したくなる。
気がつくと頼っている。
でも、
なぜその人に安心するのか、
本人にも分からないことがある。
人は、
自分でも気づいていない願いを抱えて生きている。
見てほしかった。
理解してほしかった。
信じてほしかった。
安心したかった。
けれど、
その願いはあまりに当たり前すぎて、
本人には見えていないことがある。
だから人は、
「見てほしい」と思いながら生きているわけではない。
ただ、
見ようとしてくれる人のまなざしに安心する。
「理解してほしい」と考えているわけではない。
ただ、
理解しようとしてくれる態度に安心する。
「信じてほしい」と願っているわけではない。
ただ、
信じようとしてくれる人に安心する。
一人で頑張ってきた人は、
「もう頑張らなくていいよ」
という空気に安心する。
なぜ安心するのか、
その時は分からない。
身体が先に安心を知る。
そして後になって、
「ああ、自分はこれが欲しかったんだ」
と気づくことがある。
人は、
関わろうとする人の眼差しや、
態度や、
声かけを通して、
その人が何を大切にしているかを感じ取る。
そして、
自分を大切に扱おうとしてくれていることが伝わると、
安心が生まれる。
安心は、
眼差し。
態度。
声の調子。
待つこと。
聴くこと。
その人が大切にしているもの。
それらを通して作られる。
人は、
言葉を聞いているようで、
その奥にある
「あなたを大切に思っています」
を受け取っている。
だから、
安心は技術ではない。
安心は、
大切に扱われる体験から生まれるのだと思う。
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